2012年10月22日月曜日

大根屋小右衛門


大根屋小右衛門(だいこんや こえもん)

天明4年(1784)~万延元年(1860)77歳没

 別名 石田小右衛門  石田敬起 知白斎

 出身 摂津国 豊島郡 東市場村  

 性格 勤勉・実直・家族との強い絆

 特技 絵画・和歌・情勢の判断に敏感・人心の把握に巧み・浄土真宗の熱心な信者

行った主な財政改革

  岸和田藩  文政11年(1828)

西本願寺  天保元年 (1830)~嘉永7年(1854)

富山藩   天保4年(1833)~

尼崎藩   天保5年(1834)~

麻田藩   弘化2年(1845)~
 
 この他旗本など諸藩の12件の財政改革を行った。

時代背景

天皇  光格→仁孝→孝明

幕府  家斉(いえなり)→家慶(いえよし)→家茂(いえもち)

出来事 伊能忠敬 蝦夷地測量・間宮林蔵 樺太探検・大塩平八郎の乱・安政の大獄・
    桜田門の変・ペリー浦賀来航・ねずみ小僧 国定忠治処刑・全国で一揆頻発

改革のやり方「イメージ戦略」・・・・・大阪の商人魂と宗教活動

 浄土真宗の宗旨に基づく「人間の欲望の際限なさが腐敗の原因」であるとして、仏恩・藩恩を喚起し「懇志上納」(寄付)し、心を「丸はだか」に贅沢せず生活を慎み仏恩に報いよ。

 手当ての減給・職能給制度

 特別法要(大イベント)の実施(津村別院大法座)芸能人の活用

 ロゴマーク「大根」

 大根の幟・上納された金品の展示・上納者に「大根図和歌」(感謝状)を授与する。

 門主・使僧の講演会→心の扇動・元気を与える。

勘者(かんじゃ)

 民間の財政コンサルタント 伊丹では「上島鬼貫」も活躍する。

大根(アブラナ科 春の七草すずしろ)

 日本には鎌倉時代に中国大陸より入る。日蓮上人の見た大根は大仏殿の大釘と言われた程の小さなものだった。「大根」は日本での俗名で「ローブ」が語源で、「千切り大根」を「千ローブ」→「千六本」となまった。大阪では長大な「宮の前大根」が有名で、天満の名物にもなっていた。生産が守口で行われるようになって「守口大根」となり、現在は
岐阜県で生産されるようになって岐阜の名産となっている。

「黒い土のなかで白く育つ大根を、世俗にまみれても信心を忘れず生きる浄土真宗門徒の在り方」にも比喩して「大根屋」の屋号となり、小右衛門のイメージシンボルとして使われた。

麻田藩の改革

麻田藩は摂津国豊島郡・川辺郡(池田市・豊中市・伊丹市・三田市)に主な領地を持っていた。表高10807石余りの小藩であった。初代青木一重は秀吉・家康の下で活躍した武将で元和元年(1615)家康から領地を任され、麻田村に陣屋を構えた。麻田藩の基本的な収入源は年貢に依存して、特に発展した商工業もないため冥加金などの副収入は見込めない状況だった。2代重兼の頃、公役として将軍家光上洛の供奉や江戸城の門番役、御室仁和寺・多田院の造営奉行などを任命され、小規模な麻田藩には重い財政負担となり江戸初期から財政の困窮が始まっていた。これに加えて重兼は50歳頃に隠元に帰依し出家、「仏日寺」を造り、隠元を開山とし、青木家の菩提寺とした。また京都「黄檗産万福寺」の造営奉行や黄檗禅の寺院の建立なども行い、公役と共に財政支出が多かった。麻田藩は他藩と比べて早くから財政困窮に陥っていて、明和2年(1765)には領内の年貢率が村高の7~8割以上という負担であった。家臣や領内にも倹約を命じたが改善されず、運営資金も調達出来なかった。明和5(1768)にはついに豊島・多田郷の大庄屋に「郷賄い」を命じた。本来藩が行う財政運用を領民に委託することである。しかし郷賄いも上手く行かず4年で廃止。寛政元年(1789)中村伊兵衛が家老に就任。兄の忠太夫が御勝手方給人に50石取りで就任年貢率の低減固定・贈答禁止・倹約令・藩の合理化など改善策が行われた。忠太夫が辞めてのち「人別銭」(人頭税)が課され、遂に領民1500人が次兄治左衛門を指導者として一揆を起こした。そして弘化元年(1844)小右衛門に財政改革の要請がなされた。小右衛門の改革は大庄屋庄屋を御賄場に結集させ運営を支配者側から領民の手に委ね、年貢の収納・換金・銀札大札の領内流通処理を行った。「公共財政機構」が出来、自立した地域経済を確立させた。講を組織し相互互助で皆で協力し合うことで改革を実行して行く領民の心をとらえた大幅な債務減少の改革であった。
 
大根屋小右衛門

現在日本の借金は937兆円、地方を合わせると国民一人当たり554万円と言う状況となっています。日本の将来が不安となってきます。

江戸後期も日本国中が財政破綻の状況にありました。こんなとき、現在にも通じる能力と、すごいエネルギーで各藩の財政改革を行った財政スーパーコンサルタント(ファイナンシャル・プランナー)と呼ばれる、池田出身の「大根屋小右衛門」についてお話をさせて頂きます。名前を聞かれたことがありますか?

 江戸時代前期~中期まで、幕府は天領(直轄地)からの年貢・鉱山の採掘権・貨幣の鋳造独占・港湾交通の税金などで自給自足の財政を賄っていましたが、中後期頃から商工業の発達で貨幣経済が盛んとなってきたため、経済はインフレとなり、貨幣価値が下がり物価が上昇支出は増え、幕府各藩とも財政赤字の状態となりました。そのため農民からの取り立てが一層厳しくなり、全国的に一揆が起こり不穏な社会情勢となって来ました。

 小右衛門は池田の東市場村にあった「岸上家」の三男として天明4年(1784)生まれました。岸上家は麻田藩の財政を一手に引き受けていた裕福な農家で長男忠太夫は御勝手方給人として麻田藩に仕えていた事もありました。次男治左衛門は年貢の負担の強化に苦しむ領民に同調し、領民の指導者となり大一揆を起こし、捕縛され追放されましたが、3年後許され有力農民として藩政に協力しました。小右衛門はこの様な兄たちの生き様を見ながら育ちました。当時三男は分家するか、他家へ養子に行くかしかなく、小右衛門は大坂天満橋北詰(裁判所付近)にあった寒天仕入れ問屋「大根屋」石田小兵衛の娘「とめ」の婿養子として入店しました。石田家には後継ぎがなく、小兵衛の甥「忠右衛門」に後を継がせるつもりでしたが忠右衛門は素行が悪くその器ではないと判断されて、分家し干物屋を営ませて、小右衛門を本家の後継ぎとして任せることに決まりました。小右衛門は家業に精力を注ぎ「大根屋」を繁栄させ資産家としての地位を築きました。この実績が評価されて、まず「岸和田藩」の財政改革を手掛けることになりました。岸和田藩の財政を賄っていた「食野家(めしのけ)と協同して改革を成功させます。そして次に60万両(600億円)の借財を抱えた西本願寺から請われて大改革に乗り出します。小右衛門は浄土真宗の熱心な宗徒でもあり浄土真宗の宗旨に基づいて宗派のネットワークをフルに活用し、津村別院(北御堂)で大イベント「法座」を開催、ロゴマーク「大根」をイメージ戦略として、倹約をさせ自発的に「懇志」(寄付)を上納させて借財を見事に完済することに成功しました。
続いて富山藩・尼崎藩・旗本青山氏の財政改革を手掛け、弘化2年(1845)麻田藩の財政改革に臨みます。そして77歳で没するまで12件の財政改革を請負い名を馳せました。池田市天神の「正国寺」には大根屋小右衛門の功績を顕彰する「白知翁墓碑」が文久3年(1863)没3年後建立されました。正国寺は北豊島小学校の前身の寺子屋でした。

また龍谷大学図書館には円山応挙の描いた肖像画まである有名人でした。墓は京都東山区「大谷本廟」にあります。

1 件のコメント:

  1. 小右衛門の次兄治左衛門の子孫に当たる者です。
    治左衛門の曾孫である祖父が京都に居を構えてから、京都で生まれ育っています。
    自分のご先祖様の事を知ることができて嬉しかったです。
    ありがとうございます。

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